19歳のときに日本を離れ、アメリカへ旅立ちました。
そしてホームシックらしき症状は、留学初期にすぐ現れました。
ふるさと日本や、そこにいる大切なひとを恋しく思う気持ち。
心が締めつけられるように、不安で憂鬱でしょんぼりしてしまうホームシック。
これはアメリカ留学中、はじめてホームシックにかかったときの体験談です。
さよなら日本
「成田空港まで車で送るよ」
お友達が取りたての運転免許で、仲間をキャラバンに乗せて迎えに来てくれました。
「アメリカのホテルに着いたら連絡してね」
母の心配そうな顔がそこにはありました。
みなの前ではいつも通り元気になんて思いもあり、さびしかったですが家族と笑顔でお別れ。
車内も賑やかで、楽しい空気が流れていました。
成田空港の出国ゲート横にあった「ミーティングポイント」
同じ専門学校から、今日アメリカに飛び立つ仲間が集まっています。
みな落ち着かない様子で家族や友人と、出発前の最後の時間を過ごしていました。
時間がきて、出国ゲートをくぐり、少しづつ見えなくなっていく仲間。
家族や仲間と離れ離れになり、少し心細くなりましたが、なんとか笑顔でお別れしました。
「またすぐに会える」
機内にて
空港での慣れない色々で落ち着かなかったので、飛行機の座席についたときには少しほっとしました。
機内の窓から見える景色を眺めながら、期待と不安で胸がどきどきしているのを感じました。
見送ってくれた仲間は、渋滞などにはまっていないだろうか。
もう無事に帰路についたのだろうか。
家族はいまどんな気持ちでいるのか。
少しでも気を緩めると涙がでそうだったので、気を張っていました。
「今まで自分が当たり前のように存在していた場所から、離れようとしている」
なんとも表現しがたいポカンとした感情になりました。
「当機はまもなく離陸いたします」
手紙
頂きものの中で、唯一機内に持ち込んだ「母親からの手紙」
お家を出る直前に渡されたこともあり、リュックに入れてありました。
機内で泣いたりして、他の仲間を不安にさせたら…
「短いものだから大丈夫そうかな」
母の手紙の内容はとてもシンプルで、心からの応援メッセージを書いてくれてありました。
「あぁ良かった。泣くよりも笑顔にしてもらった」
そう思いながら、手紙をリュックに戻していると、目頭がじわっと熱くなってきました。
母もいろいろ伝えたいことはあったでしょう。
でも母のことだから、私が悲しくならないように、明るい内容にしてくれたのだろう。
その短いメッセージから伝わる、極度の心配性の母の想いに、胸が熱くなってしまいました。
「母の思いを受けとめて、泣かない」
笑顔を作って、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせました。
アメリカ到着
乗り換えもあり、「やっと!」という感じで到着したアメリカ。
ホテルに到着すると、付き添いで来てくださったカウンセラーさんから部屋のカギを渡されました。
「今日は疲れもあるだろうから早めに寝なさい」
「到着したことを日本に知らせるには、どうしたら良いですか?」
「もう遅いから、明日連絡したら?」
そしてカウンセラーさんは去り、他の仲間も部屋へ行き、ロビーには私ひとりだけ。
当時そのホテルに無料WIFIはとんでおらず、海外で使える携帯電話も持っていませんでした。
ホテルの公衆電話の前で、どうやって日本に電話したらよいのか頭を抱えていました。
公衆電話から国際電話が簡単にかけられるもの、という思い込みが完全な間違いでした。
「日本のみんなが心配するから、なんとか連絡しなくちゃ」
公衆電話に手をそえながら、「どうしたら…」と静止した状態に。
「大丈夫?」
声をかけてくれたのは、同じ専門学校から先に大学へ編入された先輩でした。
今日後輩が到着するということで、ホテルまで様子を見に来てくださっていました。
「どうやったら日本に電話できますか?」
「コンビニで買えるインターナショナルコーリングカードを使えばかけられるよ」
インターナショナルコーリングカード
どう買えばよいのかさえ分からない「インターナショナルコーリングカード」。
なんとなく耳にしたことがあるだけの謎のカード。
「この辺にコンビニはありますか?」
徒歩圏内にセブンイレブンがあると教えてもらい、行こうとしました。
「もう暗いから、明日にしたら?」
夜に女の子1人でこの辺りを歩くのは危険と教えてもらいました。
それに、実際私もへとへと。
セブンまで歩いてカードを買って、国際電話のかけ方と葛藤して、寝る準備をする体力は残っていませんでした。
「国が変わると、電話をかけるのもこんなに大変なんて…」
日本のみなに心配をかけていることに不安になり、その夜は罪悪感でなかなか寝つけませんでした。
「初日はバタバタしているのだろう。きっと無事に到着しただろう。家族も仲間もそう思っていてくれるに違いない」
そう自分に言い聞かせ、なんとか眠りにつきました。
アメリカ2日目
大学の寮へ移る準備で、朝から忙しくなりました。
日本への連絡ができていない不安が消えず、ずっとモヤモヤしていました。
寮に入ればインターネットもあり、連絡ができるはず!
しかし、部屋を割り当てられたあとも1日中やることがぎっしり。
カウンセラーさんは明日帰国されるので、今日中に私たちをサポートできる全てのことを終わらせようとバタバタ。
夜夕飯をとるまで、私たちと1日中動き回っていました。
楽しいはずの皆との夕飯でも、連絡できていない不安から心ここにあらず。
「もう暗いから、またセブンイレブンに行けない…」
寮に戻り、ここでの唯一のネット環境「ダイヤルアップ接続」を試みようとしました。
しかし、電話線がどこにあるのか見つからない。
慣れない環境で丸一日忙しく、家族に連絡するというシンプルなことさえできない状況。
疲れもあり、なんだか泣きたい気持ちになりました。
どうすれば良いのか聞ける相手もいず、明日を待つしかありませんでした。
アメリカ3日目
やっと自分の時間が持てるようになった日。
今日こそ「家族に連絡を!」と意気込んでいました。
ルームメイトとはじめて顔を合わせ、電話線の場所を教えてもらいました。
「繋がらない…」
ルームメイトは部屋でネットを利用しないそう。
長いことパソコンに向き合っていましたが、繋がることはありませんでした。
すると、語学学校組の仲間の子が「Aちゃんのお家に行ってみよう」と提案してくれました。
初めてアメリカのアパートへ
Aちゃんは私たちよりも先に、同じ専門学校から渡米。
すでにアパート暮らしをはじめていて、私たちとは違う学校に通っていました。
「ネット環境が借りれるかも!」
ということで、自分のパソコンを持ってお邪魔させてもらうことに。
大学から歩ける距離にある便利な立地。
アパートのゲートをくぐると、そこは小さなコミュニティのようになっていて、いくつもの似た2階建ての建物が並んでいました。
Aちゃんの住む2階部分まで、外にある階段をのぼります。
玄関のドアを開けるとタイル部分がなく、すぐにカーペット。
「玄関ないんだけど、靴ぬいでるの」
学校の延長みたいな寮の雰囲気と違い、アットホームな雰囲気に癒されました。
お部屋が3つあるアパートで、リビングとキッチン、シャワーを共有。
1つの部屋はマスターベッドルームで、シャワーも付いているのだとか!
「リビングの電話線をシェアしてるから、それでネット繋げてみて」
ネットがやっと繋がる
自分のパソコンでは結局繋がらず、Aちゃんのパソコンを借りることに。
「繋がった!!!!」
すると「You’ve got mail」という、AOLのメールをお知らせするフレーズが聞こえました!
これを聞いたとき、うれしくすぎて泣きそうになりました。
メールボックスには私の安否を心配する声で溢れ、罪悪感でいっぱいに。
でも今日、皆をやっと安心させられることに心からほっとしました。
「とにかく電話を…」
LINEなどはまだなかったので、当時ソニーから発売したばかりのウェブカメラを手にとり、自宅に電話しようとしました。
「待って」
Aちゃんが「時差があるから、とりあえず家族が起きているかメールしてみたら?」
そうだよね、いまは時差っていうものがあるんだよね。
「時差」と聞いた瞬間、突然1本の時間軸が頭にあらわれて、私から離れたところに日本のみんながいて、それを見ながらぽつんと1人で立っているような気分になりました。
「日本のみんなをさらに遠く感じる…」
家族にメールし、しばらくすると返事が返ってきました。
心中穏やかでない様子のメッセージのあと、「電話しなさい」と。
思いもよらぬ言葉
電話で母が勢いよく話し始めました。
「なんで到着した日に連絡しなかったの?!」
連絡をしようと何度も試みたけれど、できなかったことを伝えました。
でも家族には、「電話をかける」「連絡する」ということが難しかった私の状況があまり理解できていない様子。
外国に住むことがどういうことか、家族にはたくさん情報がなく、想像しきれない部分もあったのだと思います。
でも「どうして?」「どういうこと?」とたくさん質問をされ、追い詰められているような気持ちになってしまいました。
「私の不安な気持ちを聞いてほしい」と一瞬でも思った、自分勝手な考えはすぐに頭から消えました。
そのあと姉がつづけました。
「お父さんお母さんがどれほど心配してたか分かるでしょう?!」
「何考えてるの?」
家族への想い
色々な感情が交差しました。
家族が私を心配する気持ちと同じくらい、私もみなが自分を心配する気持ちを心配してきました。
みなと離れ離れで新しい土地にきた不安と、日本に連絡できていない不安。
不安だらけの中、やっと今日を迎えました。
連絡ができない罪悪感とこの2日間過ごし、今日みなを安心させられれば、自分も少し安心できると思っていました。
でもずっと持っていた「不安」は「連絡しなかった罪悪感」へと変わり、自分を責めるような気持になりました。
心のバランスが不安定だった2日間のあと、家族とこんな会話するなんて…
連絡しなかった(できなかった)私が悪いのですが、この時この状況がとても辛かったです。
母は極度の心配性で、心配しすぎてさらに不安になり、最悪のケースを想像しはじめ、その想像にいつしか確信を持ち始めます。
「なぜ連絡しなかったの?」
そう言った母の言葉から考えると、私が「連絡できない」状態だったという想像ではなく、「連絡しない」という想像に確信を持ったのでしょう。
母も心配で辛かったろうと思います。
対処してあげられなかったことを申し訳なく思いました。
そんな色々な感情でいっぱいの中、体からしぼるように出た言葉。
「心配をかけてしまい、ごめんなさい」
目が熱くなってしまいましたが、感情をぐっと飲みこみました。
お味噌汁
無事についた報告と謝罪をみなにして、なんとかひと段落。
そこで優しいAちゃんと、そのハウスメイトがアパートでお味噌汁をふるまってくれることになりました。
ふるさと日本を思い出す香り。
目をつむり、すでに懐かしく感じるその香りを楽しみました。
そしてひと口お味噌汁をすすり、ごくっとのみ込んだ時、堰を切ったように涙がでてきました。
たまっていた不安、いまさっき飲み込んだ感情が出てきてしまったようでした。
これが、私がアメリカではじめて感じた「ホームシック」です。
どんより
寮に戻り、ルームメイトも誰もいない部屋。
部屋の両脇に置いてある二段ベッド。
勉強スペースになっているベッドの一階部分のいすに座り、日本から持ってきた写真を眺めていました。
「もうこれ以上みなに心配をかけたくない…」
そして机に並べた写真を抱きしめるように、前に倒れこみ泣きました。
「こんなに早くホームシックになっているなんて、皆が知ったらきっと心配する」
特に側にいてもあれだけ心配する母にとって、私がアメリカにいるという事実はどれほど大きな心配の種になるのか。
「アメリカに行きたいなんて、自分の身勝手だったのだろうか」
走馬灯のように巡る想い
時計を手にとり、日本でお見送りをしてもらった遠く感じる記憶を思い出していました。
「みんな笑顔で見送ってくれた」
送ってもらっているときは、私もいっぱいいっぱいでみなの気持ちを考えてあげられる余裕はありませんでした。
でも、いまはっきり分かります。
笑顔の奥に秘めた、みんなの気持ち。
私が元気にお別れしようとしていたように、みんなもそうしてくれていたこと。
「さびしいのは私ひとりじゃない」
むしろ「寂しい思いをさせている」のは私なのかもしれない。
さびしくなることは分かっていたはず。
でもみな私の夢を応援して、笑顔で見送ってくれた。
「私が今できることは何だろう」
小さな決意
そして、母がくれた手紙を思い出しました。
私が悲しくならないようにと、明るい内容で元気をくれたあの手紙です。
ごそごそとそれを出してきて、もう一度その短いメッセージを読みました。
それからすっと体を起こして、小さく決意しました。
「留学中、みなが心配するような話は絶対にしない!」
「泣き言も言わない!!」
私にとってホームシックよりもつらかったのは、みなをさらに心配させることでした。
「みなに心配をかけるくらいなら、話せないつらさは乗り越えられる」
みなが少しでも私に関して安心できる環境にいる事実が、私の心も安定させました。
私ができることをやろうと決めました。
乗り越えられぬ恋しさ
みなを恋しく思う気持ちは、常に心の中にありました。
それが泣きたくなるほど強くなったり、ただぼーっとしてしまうようなものだったり。
でもそれで不安になり、「なんとか慣れなきゃ」と焦ったり、無理に乗り越えようとしたことはありません。
そういう気持ちを持って「あたりまえ」だし、その誰かを想う強い気持ちを糧に「頑張ろう!」と思えることが本当に多かったからです。
ホームシックになるくらい、恋しい気持ちを持てる場所や人がいること。
それはとても幸せなことだと感じるようになりました。
いつも思い出すのはみなの寂しそうな顔ではなく、「がんばれー!」ってエールを送ってくれている笑顔。
「みながいるからホームシックになるけど、みながいるから頑張れる」
心配は尽きないもの
留学中、伝えるべきことは伝え、言うべきでないと判断したことは言いませんでした。
隠し事をしているような気持ちになることもありましたが、「頑張ってるね」と言ってもらえると「これでいいんだ」と思えました。
それに、これはみんなのためにだけしていた訳ではなく、自分のためでもありました。
特に母は、なんでも知りたがりますが、なんでも話せば極度に心配します。
みなに心配をかければ、私の心も不安定になります。
心配を最小限にすることで、みなも私もよい心のバランスが保てたと思います。
もちろん私のとった策が最善だったとは思わないので、こうすると良いとおすすめするようなものでもありません。
本当にただの個人的な体験談です。
でもこれが、当時いまよりも未熟だった私にとって精いっぱいの皆への愛情で、そのみなを想う気持ちが留学中の「パワーの源」でした。
「さびしいけど、次に会えるのを楽しみに頑張る!」
よくそう言っていたのを懐かしく思います。
ひとりではできなかった
私は幸運にも、自分と似た状況で、遠くにいるみなを想っているお友達が側にいました。
彼女と会ったときには、おもいっきり寂しい気持ちをお互いシェアし、最後には爆笑して元気をもらっていました。
日本のみな同様、彼女の存在は私のパワーの源でもありました。
ひとりでは「泣き言をいわない!」なんて、そんな風に強くいられなかったと思います。
いつも側にいてくれた彼女には、いまも心から感謝しています。
最後に
日本のみなと肉体的な距離が離れていて、寂しく感じることがありました。
近くにいるお友達の存在を、心強く感じることもありました。
でも日本とアメリカ、距離は離れていても心は近く感じていました。
心が側にあれば大丈夫。
たとえ触れられるほど近くにいても、さびしさを感じることもあるくらいです。
肉体的な距離じゃない。
心の距離が大切なんだと、この経験を通じ実感しました。