どれほど辛いか知っていますか?「留学ホームシック」

19歳のときに日本を離れ、アメリカへ旅立ちました。

そしてホームシックらしき症状は、留学初期にすぐ現れました。

ふるさと日本や、そこにいる大切なひとを恋しく思う気持ち。

心が締めつけられるように、不安で憂鬱でしょんぼりしてしまうホームシック。

これはアメリカ留学中、はじめてホームシックにかかったときの体験談です。

さよなら日本

「成田空港まで車で送るよ」

お友達が取りたての運転免許で、仲間をキャラバンに乗せて迎えに来てくれました。

「アメリカのホテルに着いたら連絡してね」

母の心配そうな顔がそこにはありました。

みなの前ではいつも通り元気になんて思いもあり、さびしかったですが家族と笑顔でお別れ。

車内も賑やかで、楽しい空気が流れていました。

成田空港の出国ゲート横にあった「ミーティングポイント」

同じ専門学校から、今日アメリカに飛び立つ仲間が集まっています。

みな落ち着かない様子で家族や友人と、出発前の最後の時間を過ごしていました。

時間がきて、出国ゲートをくぐり、少しづつ見えなくなっていく仲間。

家族や仲間と離れ離れになり、少し心細くなりましたが、なんとか笑顔でお別れしました。

「またすぐに会える」

機内にて

空港での慣れない色々で落ち着かなかったので、飛行機の座席についたときには少しほっとしました。

機内の窓から見える景色を眺めながら、期待と不安で胸がどきどきしているのを感じました。

見送ってくれた仲間は、渋滞などにはまっていないだろうか。

もう無事に帰路についたのだろうか。

家族はいまどんな気持ちでいるのか。

少しでも気を緩めると涙がでそうだったので、気を張っていました。

「今まで自分が当たり前のように存在していた場所から、離れようとしている」

なんとも表現しがたいポカンとした感情になりました。

「当機はまもなく離陸いたします」

手紙

頂きものの中で、唯一機内に持ち込んだ「母親からの手紙」

お家を出る直前に渡されたこともあり、リュックに入れてありました。

機内で泣いたりして、他の仲間を不安にさせたら…

「短いものだから大丈夫そうかな」

母の手紙の内容はとてもシンプルで、心からの応援メッセージを書いてくれてありました。

「あぁ良かった。泣くよりも笑顔にしてもらった」

そう思いながら、手紙をリュックに戻していると、目頭がじわっと熱くなってきました。

母もいろいろ伝えたいことはあったでしょう。

でも母のことだから、私が悲しくならないように、明るい内容にしてくれたのだろう。

その短いメッセージから伝わる、極度の心配性の母の想いに、胸が熱くなってしまいました。

「母の思いを受けとめて、泣かない」

笑顔を作って、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせました。

アメリカ到着

乗り換えもあり、「やっと!」という感じで到着したアメリカ。

ホテルに到着すると、付き添いで来てくださったカウンセラーさんから部屋のカギを渡されました。

「今日は疲れもあるだろうから早めに寝なさい」

「到着したことを日本に知らせるには、どうしたら良いですか?」

「もう遅いから、明日連絡したら?」

そしてカウンセラーさんは去り、他の仲間も部屋へ行き、ロビーには私ひとりだけ。

当時そのホテルに無料WIFIはとんでおらず、海外で使える携帯電話も持っていませんでした。

ホテルの公衆電話の前で、どうやって日本に電話したらよいのか頭を抱えていました。

公衆電話から国際電話が簡単にかけられるもの、という思い込みが完全な間違いでした。

「日本のみんなが心配するから、なんとか連絡しなくちゃ」

公衆電話に手をそえながら、「どうしたら…」と静止した状態に。

「大丈夫?」

声をかけてくれたのは、同じ専門学校から先に大学へ編入された先輩でした。

今日後輩が到着するということで、ホテルまで様子を見に来てくださっていました。

「どうやったら日本に電話できますか?」

「コンビニで買えるインターナショナルコーリングカードを使えばかけられるよ」

インターナショナルコーリングカード

どう買えばよいのかさえ分からない「インターナショナルコーリングカード」。

なんとなく耳にしたことがあるだけの謎のカード。

「この辺にコンビニはありますか?」

徒歩圏内にセブンイレブンがあると教えてもらい、行こうとしました。

「もう暗いから、明日にしたら?」

夜に女の子1人でこの辺りを歩くのは危険と教えてもらいました。

それに、実際私もへとへと。

セブンまで歩いてカードを買って、国際電話のかけ方と葛藤して、寝る準備をする体力は残っていませんでした。

「国が変わると、電話をかけるのもこんなに大変なんて…」

日本のみなに心配をかけていることに不安になり、その夜は罪悪感でなかなか寝つけませんでした。

「初日はバタバタしているのだろう。きっと無事に到着しただろう。家族も仲間もそう思っていてくれるに違いない」

そう自分に言い聞かせ、なんとか眠りにつきました。

アメリカ2日目

大学の寮へ移る準備で、朝から忙しくなりました。

日本への連絡ができていない不安が消えず、ずっとモヤモヤしていました。

寮に入ればインターネットもあり、連絡ができるはず!

しかし、部屋を割り当てられたあとも1日中やることがぎっしり。

カウンセラーさんは明日帰国されるので、今日中に私たちをサポートできる全てのことを終わらせようとバタバタ。

夜夕飯をとるまで、私たちと1日中動き回っていました。

楽しいはずの皆との夕飯でも、連絡できていない不安から心ここにあらず。

「もう暗いから、またセブンイレブンに行けない…」

寮に戻り、ここでの唯一のネット環境「ダイヤルアップ接続」を試みようとしました。

しかし、電話線がどこにあるのか見つからない。

慣れない環境で丸一日忙しく、家族に連絡するというシンプルなことさえできない状況。

疲れもあり、なんだか泣きたい気持ちになりました。

どうすれば良いのか聞ける相手もいず、明日を待つしかありませんでした。

アメリカ3日目

やっと自分の時間が持てるようになった日。

今日こそ「家族に連絡を!」と意気込んでいました。

ルームメイトとはじめて顔を合わせ、電話線の場所を教えてもらいました。

「繋がらない…」

ルームメイトは部屋でネットを利用しないそう。

長いことパソコンに向き合っていましたが、繋がることはありませんでした。

すると、語学学校組の仲間の子が「Aちゃんのお家に行ってみよう」と提案してくれました。

初めてアメリカのアパートへ

Aちゃんは私たちよりも先に、同じ専門学校から渡米。

すでにアパート暮らしをはじめていて、私たちとは違う学校に通っていました。

「ネット環境が借りれるかも!」

ということで、自分のパソコンを持ってお邪魔させてもらうことに。

大学から歩ける距離にある便利な立地。

アパートのゲートをくぐると、そこは小さなコミュニティのようになっていて、いくつもの似た2階建ての建物が並んでいました。

Aちゃんの住む2階部分まで、外にある階段をのぼります。

玄関のドアを開けるとタイル部分がなく、すぐにカーペット。

「玄関ないんだけど、靴ぬいでるの」

学校の延長みたいな寮の雰囲気と違い、アットホームな雰囲気に癒されました。

お部屋が3つあるアパートで、リビングとキッチン、シャワーを共有。

1つの部屋はマスターベッドルームで、シャワーも付いているのだとか!

「リビングの電話線をシェアしてるから、それでネット繋げてみて」

ネットがやっと繋がる

自分のパソコンでは結局繋がらず、Aちゃんのパソコンを借りることに。

「繋がった!!!!」

すると「You’ve got mail」という、AOLのメールをお知らせするフレーズが聞こえました!

これを聞いたとき、うれしくすぎて泣きそうになりました。

メールボックスには私の安否を心配する声で溢れ、罪悪感でいっぱいに。

でも今日、皆をやっと安心させられることに心からほっとしました。

「とにかく電話を…」

LINEなどはまだなかったので、当時ソニーから発売したばかりのウェブカメラを手にとり、自宅に電話しようとしました。

「待って」

Aちゃんが「時差があるから、とりあえず家族が起きているかメールしてみたら?」

そうだよね、いまは時差っていうものがあるんだよね。

「時差」と聞いた瞬間、突然1本の時間軸が頭にあらわれて、私から離れたところに日本のみんながいて、それを見ながらぽつんと1人で立っているような気分になりました。

「日本のみんなをさらに遠く感じる…」

家族にメールし、しばらくすると返事が返ってきました。

心中穏やかでない様子のメッセージのあと、「電話しなさい」と。

思いもよらぬ言葉

電話で母が勢いよく話し始めました。

「なんで到着した日に連絡しなかったの?!」

連絡をしようと何度も試みたけれど、できなかったことを伝えました。

でも家族には、「電話をかける」「連絡する」ということが難しかった私の状況があまり理解できていない様子。

外国に住むことがどういうことか、家族にはたくさん情報がなく、想像しきれない部分もあったのだと思います。

でも「どうして?」「どういうこと?」とたくさん質問をされ、追い詰められているような気持ちになってしまいました。

「私の不安な気持ちを聞いてほしい」と一瞬でも思った、自分勝手な考えはすぐに頭から消えました。

そのあと姉がつづけました。

「お父さんお母さんがどれほど心配してたか分かるでしょう?!」

「何考えてるの?」

家族への想い

色々な感情が交差しました。

家族が私を心配する気持ちと同じくらい、私もみなが自分を心配する気持ちを心配してきました。

みなと離れ離れで新しい土地にきた不安と、日本に連絡できていない不安。

不安だらけの中、やっと今日を迎えました。

連絡ができない罪悪感とこの2日間過ごし、今日みなを安心させられれば、自分も少し安心できると思っていました。

でもずっと持っていた「不安」は「連絡しなかった罪悪感」へと変わり、自分を責めるような気持になりました。

心のバランスが不安定だった2日間のあと、家族とこんな会話するなんて…

連絡しなかった(できなかった)私が悪いのですが、この時この状況がとても辛かったです。

母は極度の心配性で、心配しすぎてさらに不安になり、最悪のケースを想像しはじめ、その想像にいつしか確信を持ち始めます。

「なぜ連絡しなかったの?」

そう言った母の言葉から考えると、私が「連絡できない」状態だったという想像ではなく、「連絡しない」という想像に確信を持ったのでしょう。

母も心配で辛かったろうと思います。

対処してあげられなかったことを申し訳なく思いました。

そんな色々な感情でいっぱいの中、体からしぼるように出た言葉。

「心配をかけてしまい、ごめんなさい」

目が熱くなってしまいましたが、感情をぐっと飲みこみました。

お味噌汁

無事についた報告と謝罪をみなにして、なんとかひと段落。

そこで優しいAちゃんと、そのハウスメイトがアパートでお味噌汁をふるまってくれることになりました。

ふるさと日本を思い出す香り。

目をつむり、すでに懐かしく感じるその香りを楽しみました。

そしてひと口お味噌汁をすすり、ごくっとのみ込んだ時、堰を切ったように涙がでてきました。

たまっていた不安、いまさっき飲み込んだ感情が出てきてしまったようでした。

これが、私がアメリカではじめて感じた「ホームシック」です。

どんより

寮に戻り、ルームメイトも誰もいない部屋。

部屋の両脇に置いてある二段ベッド。

勉強スペースになっているベッドの一階部分のいすに座り、日本から持ってきた写真を眺めていました。

「もうこれ以上みなに心配をかけたくない…」

そして机に並べた写真を抱きしめるように、前に倒れこみ泣きました。

「こんなに早くホームシックになっているなんて、皆が知ったらきっと心配する」

特に側にいてもあれだけ心配する母にとって、私がアメリカにいるという事実はどれほど大きな心配の種になるのか。

「アメリカに行きたいなんて、自分の身勝手だったのだろうか」

走馬灯のように巡る想い

時計を手にとり、日本でお見送りをしてもらった遠く感じる記憶を思い出していました。

「みんな笑顔で見送ってくれた」

送ってもらっているときは、私もいっぱいいっぱいでみなの気持ちを考えてあげられる余裕はありませんでした。

でも、いまはっきり分かります。

笑顔の奥に秘めた、みんなの気持ち。

私が元気にお別れしようとしていたように、みんなもそうしてくれていたこと。

「さびしいのは私ひとりじゃない」

むしろ「寂しい思いをさせている」のは私なのかもしれない。

さびしくなることは分かっていたはず。

でもみな私の夢を応援して、笑顔で見送ってくれた。

「私が今できることは何だろう」

小さな決意

そして、母がくれた手紙を思い出しました。

私が悲しくならないようにと、明るい内容で元気をくれたあの手紙です。

ごそごそとそれを出してきて、もう一度その短いメッセージを読みました。

それからすっと体を起こして、小さく決意しました。

「留学中、みなが心配するような話は絶対にしない!」

「泣き言も言わない!!」

私にとってホームシックよりもつらかったのは、みなをさらに心配させることでした。

「みなに心配をかけるくらいなら、話せないつらさは乗り越えられる」

みなが少しでも私に関して安心できる環境にいる事実が、私の心も安定させました。

私ができることをやろうと決めました。

乗り越えられぬ恋しさ

みなを恋しく思う気持ちは、常に心の中にありました。

それが泣きたくなるほど強くなったり、ただぼーっとしてしまうようなものだったり。

でもそれで不安になり、「なんとか慣れなきゃ」と焦ったり、無理に乗り越えようとしたことはありません。

そういう気持ちを持って「あたりまえ」だし、その誰かを想う強い気持ちを糧に「頑張ろう!」と思えることが本当に多かったからです。

ホームシックになるくらい、恋しい気持ちを持てる場所や人がいること。

それはとても幸せなことだと感じるようになりました。

いつも思い出すのはみなの寂しそうな顔ではなく、「がんばれー!」ってエールを送ってくれている笑顔。

「みながいるからホームシックになるけど、みながいるから頑張れる」

心配は尽きないもの

留学中、伝えるべきことは伝え、言うべきでないと判断したことは言いませんでした。

隠し事をしているような気持ちになることもありましたが、「頑張ってるね」と言ってもらえると「これでいいんだ」と思えました。

それに、これはみんなのためにだけしていた訳ではなく、自分のためでもありました。

特に母は、なんでも知りたがりますが、なんでも話せば極度に心配します。

みなに心配をかければ、私の心も不安定になります。

心配を最小限にすることで、みなも私もよい心のバランスが保てたと思います。

もちろん私のとった策が最善だったとは思わないので、こうすると良いとおすすめするようなものでもありません。

本当にただの個人的な体験談です。

でもこれが、当時いまよりも未熟だった私にとって精いっぱいの皆への愛情で、そのみなを想う気持ちが留学中の「パワーの源」でした。

「さびしいけど、次に会えるのを楽しみに頑張る!」

よくそう言っていたのを懐かしく思います。

ひとりではできなかった

私は幸運にも、自分と似た状況で、遠くにいるみなを想っているお友達が側にいました。

彼女と会ったときには、おもいっきり寂しい気持ちをお互いシェアし、最後には爆笑して元気をもらっていました。

日本のみな同様、彼女の存在は私のパワーの源でもありました。

ひとりでは「泣き言をいわない!」なんて、そんな風に強くいられなかったと思います。

いつも側にいてくれた彼女には、いまも心から感謝しています。

最後に

日本のみなと肉体的な距離が離れていて、寂しく感じることがありました。

近くにいるお友達の存在を、心強く感じることもありました。

でも日本とアメリカ、距離は離れていても心は近く感じていました。

心が側にあれば大丈夫。

たとえ触れられるほど近くにいても、さびしさを感じることもあるくらいです。

肉体的な距離じゃない。

心の距離が大切なんだと、この経験を通じ実感しました。

アメリカ留学って理想と現実こんなに違う「そんな時どうする?」

アメリカ留学の中でも、「アメリカ大学編入学」。

アメリカで大学3年生からスタートという留学をしました。

3年次編入の良い点はたくさんあります。

理想的な編入ができれば、それは最大限に活かされると思います。

でも私は、「理想」と「現実」の間にギャップがうまれ、メリットとなるはずだったものが「大きな壁」となってしまいました。

このお話は、英語力の低い私がアメリカ大学に編入し直面したお話です。

あくまで個人の失敗談なので、「こんなことになる人もいるんだ」と参考までに聞いていただけたらうれしいです。

理想① すぐに専門分野を学べる

アメリカ大学の3年次に編入するため、日本の専門学校で「アメリカ大学2年分」の単位を取りました。

その単位をアメリカに持っていって、大学3年生から始められます。

アメリカの4年生大学では、最初の2年間で「一般教養」。

そして3年次から、ビジネスや心理学といった「専攻」を選び、専門性を身につけていきます。

アメリカ大学2年分の単位を日本で取る=アメリカの「一般教養」過程を日本で修了するということになります。

そしてアメリカでは、自分が専門的に学びたい分野をすぐに学び始められます!

「アメリカだからこそ学べる専門、そして実用的な知識を、留学後すぐ学べるなんて効率的!」

理想①の現実 すぐに専門分野がキツイ

一般教養のクッションなくはじまった専攻の授業。

「アメリカにきて、いきなり専門分野キツイかも…」

日本ではさまざまな分野の教養を、どちらかというと広く浅く学びました。

しかしアメリカ大学に編入した途端、急に専門分野にフォーカス!!

「授業内容が恐ろしいほど難しく感じる」

日本でもなんとか授業についていっていた状態だったので、専攻の授業の重みをさらに感じました。

「一般教養のクッション、必要だったのかも…」

そんな中でも授業は進み、英語力の壁もどんどん高くなりました。

「専門分野を学べる十分な英語力、ない…」

そんな泣き言がよぎる中、授業に置いて行かれる不安もおそってきました。

正直私の英語力は、アメリカの大学に編入し、いきなり専門的な知識を学ぶには十分ではありませんでした。

「日本でも英語で講義を受けていたから、内容が『一般教養』から『専門的な知識』へ変わるだけ…」

「そんな考え私には甘かったんだ…」

新しい土地、国までも変われば慣れるまでいろいろある。

そう予想はしていたものの「英語の壁までこんなに高くなるとは…」

クラスメイトの専攻に対するパッションにも少し押され気味。

「本当にこの専攻でいいんだよね?」

興味のある専攻が2つあるから、来学期に専攻を変えるかも。

1つに決められなかったら副専攻として、2つ専攻をとるかも。

実際に専攻を変えた、という話も聞きました。

いろいろな話が耳に入ってきたので、私も自問自答。

しかし私の選んだ専攻から加わった事前必修科目では、今学期のA1を落とすと来学期にA2が取れないというものが多くありました。

「専攻を変えたり、最悪単位を落としたら卒業がのびて費用がかさんでしまう」

「どうしたらいいのだろう」

ものは見方次第!

留学中壁にぶつかったときは、自分と対話する時間が多くありました。

「このままでは単位を落としてしまうかもしれない」

これから起こるかもしれない事への不安。

「もっと高い英語力があったら、専門性を身につけながら英語力をさらに高められたのかも」

日本でやらなかったことへの後悔。

アメリカで自分の現実を目の前にして、限界を感じてしまいそうになりました。

「いや違う!不安に思っても、後悔しても、今ある現状は変わらない」

「それなら、もうアメリカにいるのだから、やるべきことをやるしかない」

「できないことではなく、今できることはなんだろう?」

「アメリカ大学で専門的な知識を学ぶ英語力は、十分にないかもしれない…」

でもなんとか授業についていける英語力はある!

大学のキャンパスを歩きながら、自転車で帰宅しながら、大学の図書館、ベンチなど、いろいろな場所でやっていました。笑

もちろん頭の中でなので、声は出していません。笑

長めに落ち込むこともありました。

でも自分が置かれた「現実」を受け入れ、ものの見方を変えることで「前に進もう!」と頭を切りかえていました。

理想② 英語レベルの飛躍的向上

専攻の授業では「専門用語」がたびたび登場しました。

日本語でも聞いたことのないような英単語や、辞書で調べてもしっくりくる和訳が見つからないものなど。

日本では、新しい単語の意味を「日本語で覚える」ことが多かったのですが…

アメリカでは、「英語を英語で覚える」という作業がぐんと増えました。

たとえば「rollover」という英単語。

ジーニアス英和辞書で調べると…

「ころがり、転倒」

そして「回転貸付」という経済学で使われるような意味もあります。

陸上競技で「ロールオーバー」は、走り高跳びでバーの上で体をバーに平行にする跳び方だとも書いてあります。

しかしこの単語の意味だけを知っても、自分が学んでいる専門分野で、これが一体何なのか、どんな風に使われる単語なのか、どういう役割をするのかは分かりません。

「資金の再投資」なんて意味もあったりします。

意味にあまり執着せず、自分の専攻で学んだ定義を、英語のまま覚えていくことになりました。

これをするようになると、英語では理解しているけれど、英和辞書に載っている意味がどれも当てはまらない。

日本語ではなんというのか分からない、なんてことが起こることもありました。

専門用語を「英語で英語の感覚のまま学ぶ」

いまま日本では使わなかった脳の一部を使うような、そんな不思議な感覚になりました。

英語レベルにさらに磨きがかかりそうですよね!

理想②の現実 英語レベルが高すぎてキツイ

そりゃ英語力が低いとそうなるよね…という感じです。笑

「英語力にさらに磨きがかかる」のは、もととなる英語力があってこそ。

私はその「もと」が不安定。

アメリカ大学編入学への条件。

成績や英語の技能試験TOEFL(トフル)のスコアなどは、確かにクリアしました。

しかし、「その英語力と、アメリカ大学で専門的な知識を学べる英語力は違うような気がしてきた…」

そう不安になるほど、アメリカ大学での授業はショッキングでした。

まずは「これが本場?笑」と言いたくなった、教授やクラスメイトの英語。

日本の専門学校、そしてアメリカの語学学校、どちらでも英語で授業をうけていました。

でも「先生たちは、やさしい英語を話してくれていたのだろうか?」

そう思うほど、アメリカ大学で聞く英語はまったく違うものに聞こえました。

早口に聞こえる英語、そうでないもの。

聴きとりやすい英語を話す教授、そうでない方。

クラスメイトのクリアな英語、もごもご聞こえるもの。

それに加え、「英語を英語の感覚のまま学ぶ」という作業。

急に英語レベルを何段階もあげなければならない事実に焦り、不安になりました。

板書の多い教授、少ない方。

私の不安定な英語力が原因で、小さなことでオロオロ。

「専攻のクラス」自体が大きな壁に見えるようになりました。

語学力を磨きながら、専門性を身につけるという理想。

しかし、語学力と専門性を同時に身につけようなんて「私には限界があるのでは」と疑いはじめました。

日本の「講義を受け身で受けるスタイル」と、アメリカの(特にこじんまりとしたクラスで)「積極的で生徒参加型のスタイル」の違いも不安要素になりました。

英語や授業のスタイルだけでなく、日常生活でも色々なことが重なり、精神的にパンパンになってしまいました。

ひとつだけ!

どこから手をつけてよいのか分かず、頭はパンパン。

そんな中、また自分と対話をはじめました。

「できないことではなく、できること…」

「語学力と専門性を同時進行はできないかもしれない」

「でもどちらかに集中すれば、一方はなんとかなるはず!」

『私は二兎を追い一兎をも得れないタイプと思うから、「ひとつに集中」しよう』

「なんとか講義をうけれる英語力はあるんだ」

「専門性を身につけることにエネルギーを注ぐ中で、自分のペースでいいから英語力が上がることに期待しよう」

そして月日は流れ、卒業のとき。

『理想とは違うかもしれないけど「自分が置かれた状況で、できるだけのことはやりきった」』という実感はありました。

「せっかくのアメリカ、英語も磨けたら最高でしたが…」

英語力はどうなったのかは、「英語ができないから留学」で!

選択肢は他にもあったのかもしれませんが、当時いま以上に器用でない自分らしい決断だったと思います。

ありがたいことに、無事に1つも単位を落とさず、目標にしていた期間内で卒業できたことはうれしかったです。

「あの英語力でどうやって?」と自分でも思います。笑

正直にいえば…

「ちょっと自分に甘かったかも」と思うこともあります。

それはアメリカを離れ、日本で過ごした夏休みのこと。

卒業した専門学校で、アメリカ大学の単位として認められる「夏期講習の受講」をしていました。

「アメリカ大学卒業に向けて」という意味では、やれるべきことはやっていると感じていました。

しかしそれ以外にも、「英語力」のために何かできたかもしれないと、いま振り返り思うのです。

「夏期講習が終わったら、次の学期まで英語は話したくない」

英語が嫌いになりそうな心の状態で、私は今以上に未熟だったので、できたかどうかというのは分かりません。笑

気丈にふるまっていましたが、追いつめられていた部分はありました。

アメリカの留学期間は、永遠に感じるほど長く見えることもありました。

それも考慮しつつ「せめて日本にいる間だけでも、もう少し頑張れたかもね」と、当時の自分に言ってあげたくなることはあります。

理想③ 英語環境は変わらず快適

日本の専門学校では、英語で英語以外の科目を学びました。

先生も外国人の方が多く、日本にいながらアメリカの大学で授業を受けているような感覚になります。

そのためアメリカ大学編入後も、「英語で講義をうける環境」にそれほど大きなギャップを感じません。

たしかに「英語」以外で「環境」が変わるものはあります。

たとえばクラスメイトが日本語を話していたのが、すべて英語に。

日本人、またはアジア人がクラスで自分だけなんてこともあり得ます。

日本では友達を作ることに難しさは感じなくても、アメリカでは少し躊躇することがあったり。

言語は話せても、異国で暮らしていくには知らなければならないことや、慣れなければならないことはたくさん。

小さな変化も、アメリカという外国にいるだけで大きく感じることもあると思います。

でも、英語というコミュニケーションのツールは大きな支えになります。

大学は、いままで日本の専門学校でやってきたことの延長。

そう感じられれば、あとは新しい環境、文化や習慣など、英語力にサポートをもらいながら自分を順応させていけます。

英語も話せないのに、アメリカの環境にも同時に慣れなきゃいけないなんて大変です。

日本でアメリカ大学にいるように授業がうけれ、英語を学べるというのは、渡米後の大きな安心感にもつながると思います。

理想③の現実 英語環境さえも大きな変化

英語というコミュニケーションツールの機能性が、高くなかった私の場合。

渡米後、アメリカでの「すべての変化」にアップアップしました。

上手くいかないことを、英語のせいにしたくなるような日々。

英語が上手くないから自信が持てない。

積極的になれない。

英語のレベルをまわりと比べ、「私の英語は不十分…」

「もっと上手に英語を話さなくちゃ」

そんなプレッシャーを勝手に感じはじめました。

その上、アメリカでの新しい文化や習慣など。

ホームシックも加わり、すべてが一気に降りかかってきました。

「英語がもっと話せたら、どんなに心強かったか…」

大きな支えになると思っていたものがなく、心細くなってしまいました。

同じ敷地内の語学学校に通っていたにもかかわらず、大学生活は全く新しい「アメリカ生活」がはじまったように感じました。

そのうち慣れる!

「やっていけるのだろうか…」

また自分との対話をはじめました。

「不安になるのは仕方ない」

「でも留学を決めたのは自分」

いまするべきことは「やらなきゃいけない」ことでも、誰かのために「やってあげなきゃいけない」ことでもない。

ありがたい両親のサポートを受け、自分で「やろう!」と決めたこと。

いまある状況も、すべて自分が招いたもの。

「自信がもてない」ではなく、「自信をもつ!」にしないと。

「積極的になれない」ではなく、「積極的になる!」

「やらなければ」ではなく、「やるんだ!」

自分で自分の背中を押すように、心の中でよく言っていました。

でもなかなか思うように行動できないこと、不安になることもありました。

そんなときには、こんなことを自分に言っていました。

「そのうち慣れる」笑

最初はたしかに気持ちを落ち着かせようと、「慣れる、慣れる!!」と自分に言い聞かせていた部分はあります。笑

「英語によって聞こえ方が違うのは、きっと慣れていないからだな!」

「板書が少ない教授の授業も、そのうち慣れるさ!」

「そのうち慣れる」と信じることで、小さなことに足踏みせず、前に進めた気がします。

「慣れれば解決することもある」

「いま焦って不安になる必要はない」

自分を追い込みすぎない

たしかに「留学を決めたのは自分自身」

「やると決めたからには、やり通さねば」

そんな風に自分を奮い立たせることが、とても大切な場面もありました。

しかし「そのうち慣れるさ」と、気を紛らわすことが必要なこともありました。

自分へのメッセージは、そのとき置かれた状況によってそれぞれでした。

「そのうち慣れる」なんて言いながら野放しにして、結局卒業の日を迎えたというものもあったりします。笑

でもそれは、「そんなに優先順位の高いものではなかったのかな」

「緊急性のない小さなことに不安になってくよくよせず、その時できること、やるべきことに集中できた」

そんな風に思ったものです。

楽観的過ぎる部分もあるかもしれないので、こうするとよいと推薦するものではありません。

もちろん慣れるまでなんて言っていられず、選択肢もほかになく、何が何でも今どうにかしなきゃならないこと、というのはアメリカ留学中ありました。

そういった緊急を要するものに対しては、ものの見方を変え「何がなんでもやるしかない!」と自分を奮い立たせ行動しました。

しかし留学中に起こるすべての物事に対して、「どうしよう、なんとかしなくちゃ」と自分を追い込みすぎないようにという考えは常に持っていました。

のんきだなぁ、と思われることもあると思います。笑

留学中考えていたのは「心、体が資本」ということ。

そう思うようになったのは、自分を追い込みすぎて心のバランスを崩してしまった方。

耐え切れず、留学の途中で日本に帰国してしまった方など。

さまざまな方の体験を通じ学ばせていただいた、貴重な教訓からです。

最後に

渡米前に抱いた理想通りにはいかなかった編入学。

理想通りだったら、開けていた新たな世界というのもあったと思います。

しかし、大きな壁にぶつかったからこそ学べたことも多いです。

後悔に後悔が重ならず、新たな自分の強みを発見し鍛えられたことは財産になりました。