もしアメリカ人彼氏に言われたら「背中に大きなタトゥーがある」

日本でタトゥーといえば、なんとなく気軽に触れづらい話題の一つというイメージがあります。

同じ日本人同士でも、世代や知恵、個々の価値観などで見方は大きく変わるようにも思います。

私の場合タトゥーに特別な興味がなかったものの、タトゥーに偏見のある両親を持ちました。

こんな私がアメリカ人彼氏を持ったとき、そして彼に大きなタトゥーが入っていた場合、私はどうするべきなのか。

そんなアメリカでの体験談をシェアします。

注意

このタトゥーのお話は「日本人がファッション感覚でいれるもの」であり、「ヤクザの刺繍」のことは言及していません。

またこのお話はタトゥーに賛成反対と意見するものではなく、「入れる入れない」又は「あるない」どちらが良いということを伝える意図は全くないということをご理解いただけると嬉しいです。

アメリカ人彼氏のタトゥーどうしよう

母のタトゥー嫌い

日本の両親、特に母が「タトゥー嫌いである」ということを、私はアメリカに行く前から知っていました。

日本に住んでいて、タトゥー入りの可能性が日本人より高い人と出会う機会もなかった私は、入っている人と出会う確率の方が少ないだろうとあまり気にしたことはありませんでした。

しかしアメリカに住み始め、アメリカ人との出会いがあったときには、「確認しなければ…」というプレッシャーが人生ではじめて襲ってきました。

あなたはタトゥーが入っていますか?

今の旦那さんがまだ彼氏だった遠い昔、「タトゥー入ってる?」と何気なく聞いたことがあります。

彼にとっては何気ない質問に聞こえたかもしれませんが、両親のことが気がかりだった私にとっては「入っていたらこの先の付き合いを考えなければならない」と真剣に聞いた質問です。

「入っている」

それを聞いて、まさにちびまる子ちゃんの世界観である「ガーン!!!」という衝撃が頭に走りました。笑

腕や脚など見えるところにタトゥーが入っていなかったので、「きっと入っていない!」と信じたくて、真実の扉をたたくまで時間がかりました。

「どんなタトゥー?」と恐る恐る聞くと…

「背中に大きなドラゴンのタトゥーが入ってる」と笑顔で言われ、「終わった…」と思いました。笑

どうしたら良いのだろう

この先、この彼と付き合いを進めて行くべきなのか。

まだ関係の浅い相手のことを「タトゥーがある」という事実だけでジャッジしている自分がいました。

両親が悲しむ、反対するかもしれないという事実が強く思考をコントロールしていました。

タトゥーはタブー

私には「両親に紹介できないような人とは付き合えない」と考える傾向がありました。

この基準で彼をジャッジしてしまうと、「タトゥーが入っているからダメ」という結論に至ってしまいます。

そこで、自分はタトゥーをどう思うか、タトゥーのある彼をどう思うのかを、両親の目を気にせず考えてみることにしました。

「私はタトゥーに対し、何の偏見も実はない」という、大切なことに気がつきました。

今まではどうやら両親のフィルターを通じ、タトゥーというものを見ていたみたいです。

タトゥーは不便だけど

日本ではタトゥーがあると市民プールやスポーツジムのプールで泳げない、温泉に行けないなど、日本独特のルールがあります。

将来子供ができてプールや温泉に連れて行きたくても、タトゥーがあるとそれができないかもしれない。

タトゥーがあるというだけで、外見でネガティブな判断をされることもあるという認識もありました。

それゆえ「タトゥーがない方が不便がない」とは思っていたものの、タトゥーがある人に対してネガティブなイメージを持ったり、タトゥーがあるという事実だけで人間性を判断するなんてことはありませんでした。

タトゥーがあると不便なこともある。

タトゥーがあると偏見を持たれることもある。

確かにそれらは事実かもしれませんが、「日本では」の話です。

アメリカ人母の気持ち

しかし実はアメリカでも「子供にタトゥーを入れてほしくない」と願う親はいます。私の友人がそうでした。

「どうして?」と聞くと、「必要ないから」と友人は教えてくれました。

日本で良く聞く、「体に傷をつけて欲しくない」「イメージが悪い」とか「将来後悔するような事があるかもしれない」そういう答えではなかったことにハッとさせられました。

しかし彼女の息子さんは体に割とたくさんタトゥーを入れたそうで、「どう思った?」と聞くと…

「いつか入れるんじゃないかと思ったから、やっぱり入れたか〜って感じ」そうあっさり言い、「息子の体だからか好きにしたらいい」と言っていました。

私は日本人ではありますがアメリカでは、タトゥーに関して「日本の見方」または「日本の一般的な価値観」を基準にする必要はないと気付きました。

日本の固定観念を取っ払いタトゥーを考えると、アメリカにいる私には「自己表現の一つ」にしか思えませんでした。

両親対策

両親に彼がどんな人なのかを知ってもらうにあたり、タトゥーがあるないをわざわざ伝える必要はない。

彼にタトゥーが入っているのか、もし聞かれるようなことがあれば「ある」と言おう。隠すことではない。

両親に会わせるころには、彼がどんなに素晴らしい人なのか私は知っているはず。

私が選んだ人に対して「タトゥー」が入っているというだけで反対するような両親ではない。

両親が心配するという理由だけで、タトゥーのある彼氏への見方を変える必要はない。

私はタトゥーに偏見がない。偏見を持つ人を悪くも思っていない。色々な意見があって良い。

そう心から思えた時、まだ見たこともない彼の大きなドラゴンタトゥーは全く気にならなくなりました。

ついにドラゴンタトゥーが!

ある日、彼が私の目の前で着替えを始めました。

ついにあのドラゴンタトゥーが見えるのか!どんなデザインなのか!どれほど大きいのか!

「あれ?!!!」

着替えを終えた彼に思わず聞きました、「ドラゴンタトゥー背中にないけど…」

「ないよ」

どういうことかよく分からず、「えっ、どこに入っているの?」

すると彼が「タトゥーは一つも入ってない」と言いました。

ビックリしすぎて聞いてみると、「タトゥー入ってる?」なんて質問されたことが初めてで、聞かれた時何か変だなと思ったそうです。

なんとなく「入っている」と言ってみたら、私の反応が顔に出て面白かったから、さらなるリアクション見たさに「背中に大きなドラゴンのタトゥーがある」と言ったそうです。

「入ってるか聞いたのは何か理由があったからじゃないの?」

そう聞かれ、全てを見透かされていた気持ちで恥ずかしくなりました。

日本におけるタトゥー事情、実は両親が…という話と、背中にドラゴンタトゥーがあると聞いてからの私の葛藤を聞いてもらいました。笑

彼は日本でタトゥーがそんな風に捉えられていることを知らなかったらしく、「興味深いね」と言っていました。

アメリカのタトゥー事情

彼はさらに言いました、「日本でアメリカのタトゥー事情を知っている人はどれくらいいるのかな」

そこで私が知る限りのアメリカタトゥー事情を、すべてシェアしたいと思います!

まずアメリカではタトゥーが入っていない人も多くいますが、入っていることは全く珍しくありません。

もちろん小さな子供に入っているところは見たことないですが、18歳以下であっても「親の許可証」のようなサイン付きの書類があれば入れられます。

ファッション感覚で入れる人もいますし、自分のカルチャーに基づいた神聖的な意味があるものやトライバルもありますし、家族など大切な人への思いを込めてデザインしたものを入れる人もいます。

例えばディズニー映画「モアナ」に登場するマウイに入っているタトゥーは、彼のアイデンティティに関わる神聖な意味のあるもの良い例です。

宗教的な意味合いがあるものは、どんな宗教を信仰しているかでタトゥーのモチーフが変わってきたりします。

ハリウッド映画では、主人公のキャラクターをより強く表現するためにタトゥーが使われることはよくあります。

またギャングのシンボルとしてのタトゥーもあります。タトゥーを見ただけでどこのギャングに所属しているのかが分かるようなものです。

ラスベガスのような街に行くと、ホテルの中に入ったガラス張りのお店で、お客さんがタトゥーを入れている様子が見られることもあります。

地元のハロウィンエキスポに行ったときも、ブース内でタトゥーアーティストに入れてもらっている人もいたくらい、どこでも気軽に入れられます。

アメリカでタトゥーの話題は、日本人がファッションの話題をするくらいカジュアルに話されます。どんなデザインがカッコイイとか、どんなデザインを次に入れたいとか、自分のタトゥーにはこんな意味が込められているとかそんな感じです。

また日本人がタトゥーの入った人に特定のイメージを持つような感覚で、アメリカでもタトゥーのクオリティーから特定のイメージを持たれることもあるそうです。

クオリティーの高いタトゥーは費用が高く、低いものは割と格安なので、見た目がかなりチープなタトゥーが入っているとあまり治安のよくない地区出身、または住んでいるのではないかと思われることもあると聞きました。

しかしそういうのが好きで入れている可能性もないとは言えません。

最近はアメリカのラッパーなど顔にタトゥーを入れている人を見かける機会が多いですが、一般人が入れるときはまだ注意が必要だそうです。州や地域にもよるそうですが、顔にタトゥーが入っているとアメリカでもあまり良い印象を持たれません。

顔タトゥーが入っていると、アメリカでも州によっては特定の職種に付きづらい、または採用されにくいなんてリスクもあるそうです。

例えばハワイでは、ポリネシア文化の伝統的な模様のタトゥーを顔に入れる人もいます。それが意味するところがハワイにいる限りローカルには分かるので、ローカルに根付いたお店や会社などで働くには問題がないことが多いそうです。

しかし大企業であったり接客業では隠すようにと言われることもあるそうです。どうやって?という感じですが、隠せないのであれば採用できないという意味でもあるのかもしれません。

アメリカ人でも顔タトゥーが入ったギャングなどではない一般人を見ると、ビックリすると言う人もいます。

それゆえアメリカ人でも将来のことを考え、Yシャツで隠せない首から上にはタトゥーを入れないという人もいます。アーティストのようにタトゥーが自己表現の一つとしてプラスに働く人などは、首や顔にも入れている人はいます。

タトゥーアーティストが入れているような首や顔のタトゥーは、目を奪われるほど美しいことが多いです。彼らの個性や雰囲気にとても合っていて、本当に芸術作品です。

体に入ったタトゥーは、全く気にしない職種もありますし、隠せれば問題ないという会社もあります。

ほとんどの職種で「体にタトゥーがあるかないか」を気にされることはないと思います。職種、または入っている場所により違いがある場合もあるのでご了承下さい。

アメリカに住みタトゥーについて思うこと

日本に住む日本人が、ファッション感覚で入れるタトゥーについて一つ思うことがあります。

それは、これからも日本に住み続ける予定で、日本でタトゥーあり生活をする道を選ぶのであれば、日本ではまだ少数派な選択をすることにより起こりうるリスクというものを、入れる前に理解し納得しないと、後に「どうして日本人はタトゥーやタトゥーが入った人に偏見があるんだ」なんて感じなければならない状況に置かれる可能性も大いにあるのかなということです。

もちろんリスクも理解した上でタトゥーを入れたし、入れたことにも後悔していないと言う日本人も知っているので、タトゥーありの日本人の考えも多様であることは知っています。

日本にいる日本人でもタトゥーに偏見も何も持たない人も数多くいると思いますが、タトゥーを入れなければ、関わること又は気にする必要さえなかった偏見持ちの人たちの存在は、入れたことにより気にしなければならない存在になることもあります。

私が両親の偏見をまったく気にしていなかったけど、(実際は入っていませんでしたが)タトゥーありの彼氏を持った途端、両親の偏見について取り扱っていかなければならなくなったのが良い例かと思います。

目立つところにタトゥーが入っている人は、例えば採用面接や結婚の挨拶などで、周りのタトゥーへの見方や価値観などをどうしても目の当たりにするなんてことはあるかもしれません。

「タトゥーはこう捉えられるべきだ!」とタトゥーに偏見のある日本人をいくら説得しようとしても、良い例かは分かりませんが、イエスキリストを強く信じている人に、仏教の教えを説くほど難しいように思います。

国や世代、環境、個々の価値観が変われば見方が変わるのは仕方のないことで、日本ではタトゥーをアメリカ人のように捉える考え方はまだアメリカほど浸透していないというのが事実なんだなと思います。

それが良い悪いという判断ではなく、日本にはまだそのタイミングが来ていないのだなと感じます。

時代の流れ

昔は否定的に取られていた行為が、現代では全く違った見方をされているなんてことは珍しくありません。

時代の流れと共に、人々の考え方や捉え方は変化するもの。それゆえタトゥーもいつの日か多くの人が「普通」だと感じる時代はくるのだろうなぁと思っています。

モテないのに国際結婚できた理由はたぶんこれしかない

前回「国際結婚して日本を離れたくない」というお話をしたのですが…

なんだかまるでモテモテの人生を送ってきて、求婚されて、「困った、まだ結婚したくないのに」と誤解をされそうな、ややこしいタイトルをつけてしまいました。

実際は「モテない私に突然縁が訪れた、なんてこった!」というのが真実であり、それをしっかりとお伝えできていませんでした。

え、どういう事?と思って下さった方、ぜひ引き続きストーリーをお楽しみ下さい。

モテない私が結婚するまで

最初に言ってしまいますが、モテない私が結婚できた理由は「理想がなかったから」ではないかと思います。

私の場合国際結婚でしたが、結婚でも同じことが言えたと思います。

「モテない」ことを自覚し、それに納得し生き方を変え、最後には結婚するストーリーです。

最初は話が「随分回りくどいな」と思うかもしれませんが、最後には「そう繋がるのね」とスッキリすると思うの、良かったら最後まで聞いていって下さい。

理想を持たないはじまり

私が小学6年生だったとき。

話で盛り上がる女の子たちの一人が私に言いました。

「男子の間でYuriいいよねって声聞くよ」

「性格いいよねって」

私も男子の間で話題に上がることがあるんだ〜なんて思っていると、さらにその子が言いました。

「でもみんな言うんだって、『でも顔がなぁ』って」

まずそれを聞いて、「私って男子たちにそういう感じで見られているんだ」と思いました。

その頃は自分の顔が可愛い、可愛くないなんていう見方をしたことがなく、可愛い子は可愛い、モテるという意識だけあり、自分はどうかなんて考えたことはありませんでした。

そしてもうひとつは、「すごく嬉しかった」

「ショックだった」って言うと思われた方も多いかもしれませんが、小学生のときは顔にコンプレックスもなく、「でも顔がなぁ」に「何それ、あはは」と笑えるような感じでした。

「私の性格って、そんな風に思われてるんだ!」

それがその時の素直なリアクションで、顔がどうこうよりも「性格が良い」と褒められたことが単純に嬉しかったです。

中学校で理解した自分の立ち位置

中学に上がると、今まで気にもしたことがなかった私の顔の特徴を、まるで「良くないもの」としていじってくる男子生徒がいました。

「私の顔ってそんな風に見えるんだ」

「そう言われると、そうも見えてくる…」

小学校のころは顔の何が良くないのか分かりませんでしたが、「ここが変」とハッキリ言われたことはすごくショックではありました。

それに片想いをしていた男の子の前で言われたりすると恥ずかしく、彼が私をどう見ているか、この男子生徒と同じように見ていたらどうしようと不安でした。

しかし小学生のときに性格を褒めてもらってから、「中身は大丈夫」というお守りがあったので、すごく落ち込んでしまうということはありませんでした。

もしその片想い中の男子が「おまえは可愛くないから嫌だ」と中身さえ知ろうとせず言うのであれば、その時はものすごく落ち込むだろうけど、「そういう人だった」と諦めがつく。

中学生ながらそんな考えを持っており、そういう人であればこのまま好きでいても仕方ないと思っていました。

今思えば、それが顔で拒否され傷つかないための、自分を守る術でもあったようにも思います。

高校で納得した自分への評価

高校に上がっても、クラスの男の子に顔のことでいじられる事がありました。

クラスでネタにされると恥ずかしかったですし、それを聞いて笑っているクラスメイトにがっかりした事もありました。

しかし「この人は女の子にそんなことを言う人なんだ」

今までは「魅力的」な人に心を奪われる感覚はありましたが、この頃から「魅力を感じない」人を区別する感覚も持ったような気がします。

それと同時に「男の子に告白された事もない」「顔のことで笑われる」=「自分はモテない」という考えもかなり定着していきていました。

特に高校では、顔の可愛い女子生徒の話題が男子生徒の間で上がることが多く、「可愛い子と仲良くなりたい」と言っていた男子生徒も多かったです。

女子生徒の間でも「何組のA君がかっこいい」と話すことはよくあったので、誰がかわいいかっこいいという話題は学生あるあるではないかなと思います。

とは言うものの、モテるから良い、モテないから悪いなんて考えはなく、ただ単純に「自分はモテない」「自分は話題に上がるような可愛い子ではない」という認識だけを持っていました。

しかしそういう環境でしかも顔のことでイジられていたので、この頃に「可愛くないことは良くない」という変な考えを植え付けられてしまったという思いもあります。

「可愛い」の基準は周りにいる男子生徒が決めた視野の狭いものではありましたが、まだ私は若かったので、顔に対するコンプレックスを少しづつ持ち始めた時期でもありました。

そしてこんなことを考えるようになりました。

「女性の容姿に惹かれ好意を持つ傾向のある男性は、まず私のところへはたどり着かないだろう」

「もし私に異性として好意を持ってくれる人がいたら、その人は容姿で女の子を選ぶような人ではないということ」

「要するに私を知ろうとしてくれる人は、人として私が好きな魅力を持っている人なんだ」

モテない高校生の私にとっては、これからの人生を生きやすくしてくれる嬉しい大きな発見でした。

理想も普通も忘れよう

モテない自分を知っていたので「告白は男性から」なんて理想も持ったことがありません。

「好きな人がいたら、待っていても何も始まらない。自分から動かなければ!」

そこで「やらない後悔よりもやって後悔」というスローガンを持って、長く片想いしてきた彼に告白することにしました。

告白といったら、想いを伝えて、イエス、ノーの答えをもらう。

それは理想でも何でもなく、当たり前の流れだと思っていましたが、私のは少し違いました。

告白のとき。

「振られて気まずくなって会えなくなるなら、友達のままいた方がいいのかもしれない」なんて想いが頭をよぎり、怖くて言えなくなってしまいました。

モジモジしていると、彼が手紙を差し出してくれました。

「付き合って下さい」

そう書いてあるのを見て、まさかと思いビックリしましたが、ジワジワ嬉しさが込み上げて、テンションが上がって「実は私も…」と自分の気持ちを話し始めていました。

自分の気持ちを伝え終えパッと彼の顔を見ると、神妙な面持ちで彼が言いました。

「その手紙、俺が書いたものじゃないんだ」

どうやら共通の男友達が書いたその手紙を、何が書いてあるのかも知らず渡され、「Yuriに渡しな」と言われたそうです。

しかもその手紙の内容は、彼の気持ちとは全く関係ないものだそう。

血の気がさっと引きました。笑

普通に気持ちを言いたかっただけなのに、まるで「私たち両想いだったんだ嬉しい」みないな感覚で話してしまった。笑

告白というシンプルな行為さえ、私の場合こんな風になっちゃうのか。

私の人生では「理想」どころか、「普通」なんて概念さえ忘れた方がいいのかもしれない、と笑けてきました。笑

自分らしい人生

そんな私を見て、彼が話し始めました。

彼は手を使って棒グラフを表現しながら…

「Yuriの俺への気持ちはもしかしたら(かなり高い位置に手を持っていって)このくらいかもしれない。俺の気持ちはもしかしたら(私の気持ちよりかなり低い位置に手を持っていって)このくらいで、そこには大きな差があるかもしれない」

さらに彼はつづけ…

「そんなんで申し訳ない気持ちだけど、それでも良かったら付き合おう」

そう言ってくれました。

嬉しさよりも先に、「えっ?!振られてない、私振られなかった」とものすごくビックリしてしまいました。

それは「今まで自分が信じてきた事は正しかった」

「私の恋愛人生で、こんな素晴らしい事が起こることもある」

ということを証明してくれました。

そして、「何だかグデグデだったし、上手く表現できないけど、自分の人生が好きだ!」と心から思いました。

理想よりも自分らしさを大切に人生を生きていこうと思いました。

容姿が嫌すぎて泣いた日

ある時、彼の大学の女友達が彼に好意を抱くということがありました。

詳しくは聞きませんでしたが、彼女は私の存在を知りつつも、彼へのアプローチを続けていたみたいです。

噂通りの美人で、実際に会った日は「どうして彼は私と一緒にてくれるのだろう」と、思わず彼の前で泣いてしまったほどです。笑

いつからか周りからの刺激を受けて、大きくなってしまった容姿へのコンプレックス。

私を彼女としてくれている時点で彼は容姿を気にする人ではないと頭では分かっていたものの、容姿に対する「どうにもこうにも処理できない自信のなさ」というのは、彼と付き合っている間も持ち続けていました。

「彼がその美人の子を好きになって、付き合いたいのなら仕方ない」そう腹をくくっていたくらいです。笑

私たちは親友のようでもあったので、彼は私に大学での話をわりと何でもしてくれました。たまに「これ私が聞く必要あるかな?」と思うことも…笑

ある日大学の男友達に言われたそうです。

「おまえ何でYuriと付き合ってんの?なんで◯◯ちゃんと付き合わないの?◯◯ちゃん、すげー可愛いじゃん」

美人から想いを寄せられても、まだ私と一緒にいる彼に、彼の友達は納得が行かなかったみたいです。笑

「おっしゃる通りだ」と思う反面、自分の容姿が心から嫌になりました。そしてそんなことを言う人が彼の友達であることには、かなりショックを受けました。

しかしそんな事で壊れることなく、彼と私の恋人としての関係は6年以上も続きました。

もらった自信と希望

彼は私に大切なことを教えてくれました。

「この世には私のような人をあんな風に大切にしてくれる人もいる」ということ。

「ありのままを受け入れてもらえた」という感覚は「自分らしくいても良い」という自信につながりました。

そして自分らしくいれば「また素敵な人にきっと出会える」という希望を持ちました。

結婚につながる縁

そんな希望を持ち続けた私に訪れたのが、今の旦那さんとの縁です。

美人でない、モテない私にも結婚に繋がる縁が訪れました。

しかしこの縁は、理想を持っていなかった私でも「最悪」と心の底で思ってしまうようなものでした。笑

旦那さんは内外共に魅力的な人で私にはもったいないくらいですが、出会ってすぐに内面を見抜けるような力は私にはなく、外見だけで一目惚れするようなタイプでもない私は、ギョッとする出会い方につい自分の中に眠っていた拒否反応が起こりそうな感じだったので、ギリギリのところで繋がったという縁でした。笑

理想を持たず自分らしく

この縁が結婚へと繋がるものだとは、私も旦那さんも全く思っていなかったどころか、二人ともまだ結婚に興味さえありませんでした。

しかし出会いから恋愛、そしてさらに山あり谷ありの道を通って結婚しました。

今までの経験から「理想よりも自分らしさを大切にするように」という教えを導いて頂きました。

その大切な教えは、ここにたどり着くための道標だったと心から思いました。

もし私がこれまでの道を通ってきておらず、私を救ってくれた沢山の教えがなかったら…

この拒絶反応が起こりそうだった出会いの縁を、自ら見捨ててしまっていたかもしれません。

そしてそれに気づくこともなく「縁がない」と嘆き、縁とは関係ない自分の顔へのコンプレックスを更に大きくし「可愛くないから、モテないから結婚できないんだ」と勘違いしていたかもしれません。

そう考えると「自分自身や置かれた状況を客観的に見ず理想を持つこと」で、もう手の届くところまで近づいている縁を、見逃してしまうなんてこともあるのかもしれないと思うのです。

「縁がない」のではなく「縁を見逃しているのかもしれない」。それはもしかしたら自分自身の中にある理想が邪魔して、見えづらくしているのかもしれない。

ちゃんとまとまっているか心配ですが、そんな事を経験から学びました。

まとめ

一言では表せなかったのでこんなに長い話になってしまいましたが…

私のような人が結婚できたのは「理想がなかったから」というだけではなく、私が通ってきた道があったからこそ、出会いや結婚の縁に対して「腑に落ちる」または「納得がいく」感覚があり、迷いがなかったからと思っています。

すべて私目線で話してきてしまい申し訳ありませんが、もちろん私のような人間を選んでくれた旦那さんの存在というのは、こんな私が結婚できた大きな理由の一つです。

旦那さん側のストーリーを何度も聞き出そうとしていますが、いつも冗談を言われ終わるので謎のままです。笑

また「理想を持たない」は「誰でも良い」とか「この人でいいや」という考えとは全く異なります。「縁を見逃さない」ためには「理想を持たない」ことも一つかもしれないと捉えて頂けると嬉しいです。